「心と身体は繋がっている」という言葉をよく聞くようになりました。でも、この言葉はおかしいなと思うのです。そもそも目に見えない「心」と、目に見える「身体」を分けて考えていて、さらにそれらは繋がっていると表現しています。つまり、一つのものをわざわざ分けてから元に戻すような複雑なことをしているようにしか思えないのです。
いまは「心」と「身体」を分けて考える人が多いですが、「身(み)」の言葉からもわかるように、心と身体をひっくるめて生命を表現していました。
「心と身体」を分けて考えるようになった理由
では、なぜ、心と身体を分けて考えるようになったのでしょう? それは脳が物事を理解する仕組みに大きな要因があります。
脳が物事を理解する仕組みをワインボトルで例えることができます。ワインボトルは入口が狭くて、中が広い形をしています。入口の狭いところをボトルネックという表現に例えられることがあります。脳が物事を理解する仕組みは、このワインボトルに物を入れることに例えられるのです。ボトルネックを通過して、初めて理解することができます。逆にいうと、ボトルネックを通過できないものは、理解できないのです。
例えば、全宇宙を説明することはできそうにありませんが、宇宙全体から切り分けた地球を説明することなら、ちょっとできそうな気がします。さらに、地球から切り分けた日本やもっと切り分けた富士山について説明することならできるかもしれません。このように、大きな概念はボトルネックを通過できないので、理解できないのです。そのため、大きな概念をより小さな概念に分けることで、理解しようとするのが脳の仕組みなのです。
いつも言葉には面白い側面があると思うのですが、「分ける」と「分かる」は同じ漢字を使います。大きなが概念は分けることで分かるようになるのです。つまり、分けられないものは分らないのです。どうして心と身体に分けて考えるようになったのか?の話に戻りますが、きっと私たちは自分たちの生命について知りたかったのだと思うのです。生命全体を理解することは脳ができないため、目に見えない心と目に見る身体に分けたのかもしれません。さらに文明が進むにつれて、身体には、骨格や臓器があって、そこには生理現象があることが分かり、「解剖学」や「生理学」などの学問が発達してくるわけです。いまではさらに細分化した「細胞」や「遺伝子」の学問まであります。学問というのは、大きな概念を切り分けたものと言えます。学問が発展すればするほど、細分化がおこなわれます。そして、現代では、概念を分けることができる人が「頭がいい」と呼ばれています。医学(という学問)が発展すればするほど、病気が減るというのは幻想で、逆にどんどん病気が増えていく理由がこれで分かります。いまでは病気の種類は10万くらいあると言われていますが、原始時代までさかのぼると「お腹が痛い」「怪我した」「熱がでた」くらいしかなかったんじゃないかと思うのです。
分けることで生まれるもの(細分化の功罪)
「分けることで名が病む(悩む)」と昔の人は面白いことを言っていたそうです。つまり、「分けることで悩みが増える」ということです。先の医学の話を例えにとっても、大昔は数種類しかなかった不調が、いまや10万以上の種類に細分化されていることで、それだけその病気に悩んでいる人が増えているということになります。学問が発展する(細分化する)ことで、受けられる恩恵があるのも確かですが、それだけ悩みも増えているのが現実です。
細分化の限界と全体論への転換
私たちは生命全体を理解したくて、心と身体に分け、学問を発展させどんどん細分化しています。では、その細分化した知識を全部理解したところで生命全体を理解できるのでしょうか。アリストテレスやその影響を受けたゲシュタルト(療法)は「全体は部分の総和に勝る」という言葉を残しています。時計を構成する部品をすべて集めたところで、組み立てなければ時計として機能することはありません。そして、私たちの生命を構成するすべての要素を集めても、生命が誕生するわけではありません。そこからわかるように、「全体は部分の寄せ集めではない」と言っているのです。
いま、「心と身体は繋がっている」という発想がでてきている背景には、この細分化する流れの世界の中で増え続ける悩みのなかに解決策がないことに気づき始めたのではないかと考えています。細分化することで悩みが増える流れから、より全体に向かっていく流れにシフトチェンジしていく時期なのかもしれません。ホリスティックとかホロトロピックという言葉で表現されています。これは「理解する」ことに偏りすぎた世界から「感じる」ことを大切にする世界に向かうということです。なぜなら全体に近づくほど、脳が理解できない部分(余地)が増えていくことを許容することでもあります。これは原理原則やルールに縛られて、答えが一つだと思い込まされ苦しみが生まれる世界から、より多面的に世界を感覚を通して捉えていくためのステップなのかもしれません。
Unfolding Bodyworkの視点:「心は身体、身体は心」
Unfolding Bodyworkでは、心と身体を分けて見ていきません。より全体の生命として捉えていきます。そのためには、身体に備わった超優秀なセンサーを使っていきます。身体の感覚を使って、クライアントの生命全体を感じ取っていくのです。生命全体が表現している情報を感覚的にインプットし、そこから思考的にセッションを組み立てていきます。私たちは「心は身体、身体は心」と捉えることで、クライアントの身体の状態に心の状態が表れていると見ていくのです。そうすることで、症状にとらわれてその原因探しをするのではなく、生命としてよりよくなるためのサポートをすることができるようになります。その結果、症状がなくなってくることはありますが、症状をなくすことだけが目的ではないのです。