最近では瞑想をする人も増えているようです。日常のなかに静かな時間を持つことの価値がもっと広がればいいなと思います。
私は十数年前からアメリカの瞑想グループに所属しているのもあって、日常的に瞑想する時間を作るようにしています。しかし、瞑想を始めたときは、座ってじっとしていることが苦手でした。今回はそのとき気づいた「思考」について書いてみようと思います。
例えば、25分瞑想をすると決めて座ったとしましょう。25分と決めたのは私の意思なのに、座っていると「あれをしなきゃいけない」「これをするのを忘れてた」「あのときこういえばよかった」など、思考がグルグルしてきます。そのとき、まるで思考が私に瞑想させないかのように、立ち上がらせて忙しくさせようとしているように思いました。25分座ると決めたのは私、しかし、立ち上がらせようとする私の意思ではない思考が次々と起こってくる。そう考えると、「私の思考というものは、私のものではない」可能性がでてきます。
思考という名の「借り物の鎧」
確かによく考えてみると、完全にオリジナルの私の思考というものはないように思うのです。例えば、なにか新しいアイデアを思いついても、実はどこかで見たものだったり、なにかの本で読んだものだったりするのです。「こうしなくちゃいけない」「〜ねばならない」というのも、本当に私が考えて納得しているものかというと違うようにも思います。いま私の思考だと思い込んでいるものは、親やそのまた親、関わる周りの大人や友人関係など、もともとは多くのだれかの思考によって構成されているように思います。こういうことからUnfolding Bodyworkで症状の原因は「思考の癖」と書いてきました。
「私の思考はない」と捉え直してみてください。私の思考を私のものだと思うから、「〜ねばならない」が増えて苦しみが生まれてくるのかもしれないという発想が生まれてきます。そして、次に質問したいのは「もし私の思考がないなら、そもそも私というものは存在するのでしょうか?」ということです。生まれてから大人になるにつれて、私たちは自己を形成するために外側に意識を向けることを学習してきました。いい大学に入るため、いいところに就職するために、「だれかの思考という鎧」を身につけて、それを私だと思い込んでいます。それが本当の私でしょうか? 違いますよね。私のものではないものを私のものだと思い込んでいるので苦しみが生まれるんです。「私という存在は、存在しているようで存在していない」のかもしれません。そして、私が存在していなければ、ほかのだれかも存在していないと考えることができそうです。
雨粒が海に還るように、「個」を手放す
「私たちの人生は雨粒のようだ」と思うことがあります。雨雲から雨粒として生まれ、地上に落ちるまでが人生。その間に、他の雨粒と一緒になったり、植物や動物に取り込まれたり、地上に落ちる前に蒸発したりしているようです。そして、雨粒は土に吸収され、川に流れて、海に出る。海に出てしまうと自他の区別はできません。そして、海水になった私たちは温められ蒸発して、また雨粒に生まれ変わるのかもしれない。雨粒として地面に落ちるまでの時間は非常に短かく、そのあと雨粒に戻るまでの時間のほうがはるかに長い。死に向かって落ちていく非常に短い時間を、だれかによって作られた私に振り回れるのはもったいない。好きなところにぴょんぴょん跳ねていきたいものです。
「だれかの思考という鎧」はもう必要ない。だけど、どうやって脱いだらいいのかわからないという方は、Unfolding Bodyworkの個人セッションをお試しください。鎧を脱ぐための鍵をお渡ししています。
次回、機会があれば、呼吸の度に私たちは生死を繰り返している話が書けたらと思います。