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​「わかろう」とするのを、やめてみる。——未完成のフォーカシングを、身体で完結させる

​私たちはいつの間にか、自分自身を「バラバラ」に扱うことに慣れてしまいました。

​「心の問題はカウンセリングへ」「体の不調は整体へ」。

しかし、心と身体は本来、分けることのできない一つの「いのち」です。

​昨今では「ホリスティック(全体的)」という言葉が一般化しつつありますが、実態は「心へのアプローチ」と「身体へのアプローチ」を足し算した、それぞれの延長線上でしかないものがほとんどです。それでは、本当の意味で私たちの「全体性」に火を灯すことはできません。

​なぜなら、私たちの「脳(思考)」そのものが、物事を切り分け、概念化しなければ理解できない仕組みになっているからです。

​学問も医学も、発展すればするほど細分化が進みます。医学が発展するほど病名の数が増え、私たちが「どこへ行けばいいのか」と悩みが増え続けるのは、そのためです。分析し、切り刻み、理解しようとすればするほど、私たちは「いのちの全体像」から遠ざかり、もはや疲弊しきっています。

​「言葉」の限界、そしてフォーカシングとの出合い

​今から15年前、私はボディワーカーとして活動するなかで、ある決定的な壁に直面していました。

​どれほど身体が自発的に緩んでいくのを丁寧にサポートしても、クライアントの心の中に「言葉にならない何か」が停滞している限り、身体の緊張はすぐに戻ってしまうのです。

​外側から物理的にアプローチして一時的な「緩み」を引き出したとしても、その人の「あり方」の根底にある滞りが解消されない限り、身体はまた元の形を思い出してしまいます。そんな時、私の探求の旅の中で出合ったのが「フォーカシング」という手法でした。

​フォーカシングとは、まだ言葉にならない身体の微細な感覚(フェルトセンス)に注意を向け、そこから意味を汲み取っていくプロセスです。

​あるセッションでのことでした。肩の痛みを訴えるクライアントが、その重みの奥に「得体の知れないモヤモヤ」を感じていました。私がその感覚をフォーカシング的にガイドしていくと、彼女の口からポツリと、「これは、幼いころに言えなかった『ごめんなさい』という固まりです」という言葉がこぼれました。

​その瞬間、彼女の表情は和らぎましたが、一方で、身体のその場所にはまだ、物理的な「硬いしこり」が取り残されたままでした。

​私はここで気づいたのです。

「言葉を見つけただけでは、プロセスはまだ未完成なのだ」と。

​未完成な対話を、身体で完結させる

​フォーカシングは、心理的な気づきを導く素晴らしい手法です。しかし、それを「対話(言葉)」という脳の領域だけで終わらせてしまうと、結局はまた「解釈」という細分化のループに飲み込まれてしまうリスクがあります。

​Unfolding Bodyworkが、フォーカシングをベースにしながらも、そこに「直接的な触(タッチ)」を統合しているのは、このためです。

​先ほどのクライアントの例で言えば、彼女が「ごめんなさいの固まり」という言葉を見つけたその瞬間に、私はその場所へ直接、慈しむように手を置きます。

​言葉として浮かび上がったフェルトセンスに対し、身体を通してダイレクトに応答(レスポンス)する。すると、脳での理解を超えて、組織レベルで「ずっと聴いてもらいたかったんだ」という深い解放が起こります。

​脳は「全体」を理解できませんが、身体という「センサー」は全体を一度に捉えることができます。直接触れることで、未完成だった対話がようやく物理的な体感として完結し、バラバラだった心と身体が、本来の「一つの物語」として展開(Unfold)し始めるのです。

​「わからなさ」のなかに、安らぎがある

​もう、自分を分析して疲れ果てるのは終わりにしませんか。

​科学のベクトルはこれからも細分化を続けますが、あなたの「いのち」はそれとは逆の、統合の方向を求めています。「なぜ苦しいのか」「どうすれば治るのか」という問いを一旦手放し、ただ、今ここにある身体の感覚を信頼してみてください。

​「わかろう」としなくていいんです。

脳が理解を諦め、ただ身体の微細な声に手が触れたとき、あなたは自分が思っていたよりもずっと大きく、自由な存在であったことを思い出すでしょう。

​Unfolding Bodyworkは、あなたが「全体」として息を吹き返すための、静かな旅なのです。

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